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悪について

積ん読になっていた、河合隼雄さんの「子供と悪」を読みました。

 

いろいろな金言があったんですが、中でもいくつか印象に残った言葉がありました。

 

たとえば「善良なるものは創造しない、それは想像力を欠いている」なんていうの。

 

これは河合さんではなく、シオランの言葉で恐縮なんですが、膝を打ちました。善良なだけのものには可能性がないというか。動きやストーリーが生まれ得ないというか。

 

少し違うかもしれないけれど、例えば人って言い訳するときに案外と創造性発揮するじゃないですか。できない理由を並べ立てるときクリエイティブに脳みそフル回転したり。ぼくは遅刻の言い訳なんか無限に思いつけるような万能感があったりして。

 

以前の職場ですげー遅刻とか欠勤する新人がいましたけれど、彼には敵いませんでした。ペットの病気から始まり、果ては親戚のおばさんが入院したりと。その人の周囲の人はほとんど病に倒れていました。本当のことかもしれませんが、そうだとするとある意味彼の持ってる厄災引き寄せレベルがワールドクラス。その後、彼が程なく退職しまして真実は闇の中ですが。

 

それはそうとして、ぼくは少し悪いこと考えるときのほうがウキウキしたりする、といえば言い過ぎかもしれないですけど、人間少しくらいヤマシイところがある方が活き活きする、なんてこともあると思います。

 

 

 

悪とはなにか、なんていうところも扱ってらっしゃるんですが、これは難しいです。河合さんも「本当は人に善悪なんて判断できない」っていうことを思ってるフシはありますけど、それでは考察が進まないので、「集団の存続に障害となる由々しきもの」「集団の秩序を乱すもの」と一応定義はされています。

 

私見なのですがそうなると、所謂いじめられる側は悪でいじめる側は善になったりしますね。集団のマジョリティ(いじめる側)からすると、マイノリティ(いじめられる側)は悪になりがちですもの。けしからん、気に入らん、あいつが居るせいで秩序がが乱れる、と。

 

いじめは悪行なんだけど、善者がそれをするから善行になる錯覚を得るようなところがあって。そういう快感があるのかもしれません。いろんな国に戦争を仕掛けるアメリカみたいにね。

 

ともかく「悪いことだからやめよう」なんて一筋縄でいかないところが、人間が人間たる所以なんで。「悪」には、えもいわれぬ魅力があるのでしょう。

 

 

 

「善意を持った悪が一番厄介」だなんて言いますけれど。大きなお世話的な。

 

例えば親戚のおじさんとかおばさんの、お決まり文句ありますよね。

 

独身女性に対して

 

「いい人まだ(出来ないの)かい?」→彼氏できる→「結婚まだかい」→結婚する→「子供まだかい」→子供授かる→「二人目まだかい(一人っ子はかわいそう)」→子供成人する→「(子供の)結婚まだかい」とかですね。

 

まるで

 

妖怪まだかい。

 

親切心だと思っての的はずれなアドバイスって始末が悪いですねえ。

 

 

 

読後、しばらく経って思ったこと。それは、人間は誰しも「これが最善だ」と思ってした行為が図らず悪になってしまうことがある。そういう哀しみを背負った生き物だということです。

 

ぼくはたまに考えます。もしヒトラーの幼少期に彼が重病になっていたとして。そのヒトラーの命を救った医者がもし居たとしたら、彼は善き行いをしたのでしょうか。

 

大きな視点で考えると全ては善に向かって動いている。そのために必要な出来事がある。そういうマクロな視点で見ると、それも善、あれも善なんでしょうが。ミクロで見ると自分の行為はもとより存在自体に、疑問を感じ虚無感に襲われることもあります。

 

普段そこまで深く考えて何かをなすことはあまり無いですけれど、「これはいい事だ」と感じる物事をなす場合は特に「これ、もしかするとすげー悪なんじゃないか」と言動に気をつけたいと思ってます。

 

図らず善行が悪行になってしまうよなある意味滑稽なこの世界に、大いなる慈しみを持ちながら生きていければいいなと思います。嫌な人から離れるとか、嫌なことにNOと言うことは、それはそれで程々に必要だと思いますけど。

 

 

 

これを読まれてるあなたも、今日も最善を尽くして生きてるんじゃないかなとお見受けします。お疲れ様です。